
2018年8月末を持って10年のサラリーマン生活に終止符を打ちました。
16歳の時に僕は頑張って合格した高校を学校から退学処分を受けたわけではなく自分から辞めました。
そこから僕のサラリーマン生活が始まりました。本当に長い長い10年間でした。
しかし、僕は今でこそ脱サラしサラリーマン思考から個人で稼いでいくという思考に変わりましたが、初めからそうだったかといえば実はそんな事はありませんでした。
元々、僕は工場は一生安泰だ!サラリーマンで毎月同じ給料を毎月もらっていれば安定だ!と思っていたぐらいです。
そんな僕も今は自分でお金を稼ぐようになり、脱サラし1月には起業するところまで来ました。
自分で言うのは軽率かもしれませんが同じ20代、30代の人、普通の人以上に波乱万丈な人生を送ってきました。
この記事は自己紹介という生易しいものではなく、16歳で高校を中退した事から僕の人生は一気に狂ってしまい、、サラリーマンは安定しているし一生安泰だ!
なんて言っていた僕が何がきっかけでネットビジネスを知ったのか?アフィリエイトを始めたのか?脱サラまで至ったのか?
をストーリー立てで書いていこうと思います。
初めにお伝えしますが僕は才能も無ければ、資格もないし、天才でもありません。
栃木県の田舎育ちで、近くの幼稚園に通い、地元の小学校、地元の中学校に通い、自ら高校を中退しただの馬鹿です。笑
よく成功者などを見ると、あの人には才能があったから、、、とか、あの人だから出来たんだよ!
という人がいますが決してそんな事はありません。
よく、努力は報われるという人がいますが、僕は報われるまで努力してきたからこそ、少しずつ目の前の壁を一つ一つ壊して底辺のさらに底辺から駆け上がってきました。
この記事を通して僕と同じ境遇の方に少しでも何か感じていただけたら嬉しいです。
この記事全てがあなたに響かなくていい。
たった一つのワードだけでも何かあなたの心に残っていただけたらそれでいいと思っています。
さて、ここからが本題です。本当に長くなりますのでそれでも僕の事を知りたい!!
と思っていただけた方は最後まで是非僕のストーリーを見ていただけたらと思います!
目次
【16歳】校則が嫌で中退した高校時代
『お前は絶対にその高校には受からないぞ』と言われた受験シーズン。
僕は地元の高校ではなく、隣町にある商業高校に通いました。
地元で行ける高校は男子校ぐらいだったのでそれだけは絶対に嫌で必死に勉強をして絶対に受からないと言われていた高校に受かってしまいました。
僕は飛び跳ねるぐらい喜びましたが、簿記に全くついていけなかったことや、周りの友達が皆退学する人ばかりで、僕もその波にのってしまいました。笑
クラスの成績は1クラス40人中39位というほぼ最下位。 商業なのでパソコンの授業も合ったため普通ならパソコンは得意!!
と言いたいところですが、パソコンすらも覚えられないぐらい馬鹿でした。
何よりも当時ギャル男をしていた僕は髪の毛を伸ばしていて毎回定期テスト前に頭髪検査で呼び出しをくらい強制的に先生に切られていました。
それが本当に嫌で自主退学をしてしまいました。笑
今思うと本当に馬鹿だなと思ってしまいます。笑
当時はメンズエッグという雑誌が流行っていたこともあり、ギャル男全盛期の時代。今でも当時の写真を見る度に髪の毛なげー、って感じで気持ち悪く思います。
中退した次の日から働き出した職人時代
一年もしないうちに僕は高校を自主退学という形で退学してしまいました。
高校を辞めた僕は辞めた次の日から塗装屋さんで働くことになりました。
前の日まで高校生だった僕は、次の日から職人職で働くというあまりのギャップに辞めてたった一日目で学校を辞めた事を大後悔。
戻りたくても戻れない、、、、そんな心の葛藤をいだきながら仕事に行く毎日でした。
この当時の僕の日給は¥6,000。 時給に換算すると一体いくらなんだよ!!と言いたくなるぐらいの安月給でした。
ちょうど100年に一度の大不況と言われていた時でリーマンショックと時期が重なっており、働きたくても仕事がない!という時期でハローワークに人が溢れかえっていた時期でした。
毎朝5時起きで、帰ってくるのは毎日20時。兎に角毎日仕事を辞めたいといいながら職人職は3年間勤めていました。
16歳で中免を取得!単車に全てを捧げた10代
高校を辞め仕事を始めた僕はすぐさま中型免許を取得し、16歳から20歳までは単車に全てをかけていました。
- 仕事を終わりは友達とナイツーに行く毎日。
- 仕事終わりは煙草を吸いながら単車いじる毎日。
- 休みの日は友達とツーリングに行く毎日。
24時間単車の事で頭が一杯でした。
当時55万円で購入し、トータルすると100万ぐらいバイクにお金をかけていました。
今は単車は手離し、全く興味がありません。
ひたすら同じことをしていた工場勤務
職人の仕事を3年ほどやり19歳になった頃、もう職人の仕事は二度とやりたくないと思い仕事を退職することになりました。
この時の僕は一生、職人はやらないと心に誓った事を今でもよく覚えています。
それと同時に近くの工場で働くことになりましたがその工場もまた違った意味で辛かった。笑
まるで北朝鮮の強制労働者か!!と言いたくなるぐらいに毎日ひたすら同じことの繰り返し。
しかも流れ作業。嫌でもやるしかない。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日ひたすら同じことをやります。
たった一度しかない人生をこんなところでやってられないと思いました。
流れ作業を経験したことがある人ならこの気持わかると思います。
この仕事を定年までやっている人は凄いなとつくづく思ってしまいます。
手取り収入たったの11万円だった20歳
工場勤務をしていた頃の僕の手取り月収はたったの11万円でした。19歳から21歳になる直前まで。
今でもこの給料明細を見る度にぞっとします。残業が無い日は9万円 という月もあったぐらいです。
ビジネスを本気で拒否っていた21歳
工場勤務をしていた僕は19歳から21歳までの間で2回ほど転職していました。どちらも工場です。
そんなある日。久しぶりに友達から飯に行こうと誘われました。
飯に行くと、久しぶりに合ったにもかかわらず、『夢ないの?』『俺今人生楽しい』『凄い人に出会った』などとひたすら話され、当時の僕は工場勤務していれば一生涯安泰と思っていたので夢なんて全くなかった。
とりあえず普通に働いて普通に生活ができていればいい。
今回久しぶりに友達から連絡きたのが要するに、ネットワークビジネスの勧誘だったということです。
俗にいうマルチ商法ってやつです。当時は仕組みもよく知らず、周りが皆ネズミ講と言っていたから僕もマルチ=ネズミ講という認識を持っていました。
そもそも当時の僕はビジネス自体に全く興味がなく、労働して得ないお金は絶対ダメでしょ! という考えだったので全力で拒否っていた事を思い出します。
リアルビジネスを学んだキャバクラ時代
工場勤務をしていたころ、あるお話が入ってきました。
『一緒にキャバクラやらないか?』
バイクを乗っていた頃からお世話になっていた先輩からいきなりこのようなお誘いがありました。
ちょうど工場勤務に飽きていた僕は迷わず『やる』と言い、即答でした。
店舗の内装工事からオープンまで関わりましたが、半年でスピード閉業してしまいました。
しかし、僕はこのキャバクラを経験したことでビジネスというものを知り、マーケティングを学ぶことになりました。
ただただ、工場で毎日同じことをしてお金をもらって満足していましたが、キャバクラを経験したことにより、お客さんに価値を提供してお金をいただく楽しさを知ってしまいました。
再び工場勤務に戻った22歳の夏
キャバクラが閉業したとともに僕は再び工場勤務に戻ることになりました。
正直キャバクラは辞めたいと思っていた頃に閉業したのでまたキャバクラで働くという考えにはなりませんでした。
この時の僕の心境は、もう工場で正社員になって楽しく過ごせればそれでいい。
どうせうまく行かないから高望みをするのはやめよう。という考えに至りました。
【人生の転換期】サラリーマン思考からビジネス思考へシフト
しかし、キャバクラから再び工場勤務に戻った頃、僕はサラリーマンで一生生活していこうという考えが薄れて来ていました。
マーケティングの楽しさをしってしまったからです。
一瞬人生を諦めかけましたがやはりそこで頭をよぎったのがマーケティングでした。
そんなある時、僕に大きな転換期が訪れました。場所は自宅付近のコンビニでした。ある一枚の雑誌の表紙が目に止まりました。
秒速一億円稼ぐ与沢翼がシンガポールで豪遊していた!
『秒速で一億円稼ぐってどうゆうこと?そんなのありえないだろ!!!』と疑問を持ちつつ雑誌を広げた僕は衝撃を受けました。
『世の中にこんな人がいるんだ』と今までに無いくらいの衝撃を受けたとともに『俺も絶対にこうなる!!!』と心に誓った日でもありました。
そこでこの人何をしている人なんだろう?と思って与沢さんについて調べていた所ここで始めて『アフィリエイト』というワードが出てきたわけです。
【地獄】稼ぐために始めたビジネスで逆に借金をしてしまった
アフィリエイトを始めようと思った僕はすぐさま誰かに教わろうという考えに至りました。
もちろんネットでアフィリエイトと調べたらたくさんやり方は載っていましたがそれで稼げるわけがない。
そう思った僕はネットで出会った人に教えてもらったり、アフィリエイト塾に入ったりしましたが正直全く稼げなかった。
気づいたら逆に借金が増えていた。
これ以上借金は増やせないと思い、アフィリエイトで調べてコツコツと稼ごうと思いました。
しかし、稼げるわけがなかった。
この頃僕はアフィリエイトの教材を買いあさったり、ネットワークビジネスを始めるなど色々なビジネスに手を出してしまい俗にいうノウハウコレクターになっていました。
100円のジュースでさえ厳しかった23歳
貯金もなく、借金が増え、給料は借金でほとんどなくなってしまう。23歳はそんな絶望的な毎日でした。
たった100円のジュースでさえ買うか躊躇してしまうくらいお金に困っていた時期もありました。
支払いは全てクレジットカード決済、リボ払いで毎月3000円ずつ支払っていました。カードを使えば使うほど金利が増えていく日々。
俗にいうリボ地獄。
人生のどん底と言える20代前半でした。
夢を諦めらきれなかった25歳
借金が増え現金がなくクレジットでなんとかやりくりしていた僕は、それでも諦めきれなかった。
別にビジネスなんてしなくても普通に働いて給料をもらってごく普通の生活をする選択肢を選べばこんな苦労はしませんでした。
借金も背負うことはなかった。
しかし、諦めきれませんでした。
夢があったから。
23歳の頃、コンビニでたった一冊の雑誌がきっかけで始めたアフィリエイト。
あの日アフィリエイトを始めようと決断した時点で僕の夢は、目標へと変わりました。
夢は寝て見るもの。夢を追いかけるため行動することにより始めて夢は目標に変わります。
たった一人との出会い。この出会いから人生が変わった
23歳で始めたアフィリエイト。気づいたら僕は25歳になっていました。
そんな時僕はたった一人の人と出会いがあり、それがきっかけで人生が大きく変わりました。
散々騙されてきた僕でしたがやはり、人に教わるのが1番てっとり早いという考えは変わりませんでした。
学校で各科目の先生がいるようにお金を稼ぐのにも先生という存在が絶対に必要だと思いました。
お金を稼ぐということは学校の勉強以上に難しい事です。学校の教科に『お金』という教科があっても良いぐらいです。
そしてその出会いが2017年2月の出来事でした。
数字が全ての営業職時代
2017年2月新しい出会いがあったとともに、僕はアフィリエイトをする時間を増やしたいと思い職業を変えました。
営業職です。何故営業職かというと僕がやっていた営業は担当地域をもたされ、会社から担当地域は車で30分ほど。
遠い人で1時間という地域もありました。
会社から出たら毎日定時まで自由時間なのでそれを大いに活かしたかったというわけです。
しかし、毎日が自由と同時に一応営業の会社なのできちんと数字は取らなければいけません。
もちろん僕は仕事中は読書をしたりアフィリエイト作業をしていたので数字は悪かったです。笑
毎日2時間以上の打ち合わせ。月末になると今月は絶対に数字落とせないの繰り返し。これが毎日毎月入社してから退社するまでの一年間続いたわけです。
どんなに数字を上げてその月にスーパーヒーローになっても翌月からはリセット。
数字が足りなければ、案件は?数字は?今月何件契約取れるの?営業マンというのはそんな日々の繰り返し。